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  • 【ミャンマー連載コラム】ここは柔道再生工場 vol.1

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    ミャンマー赴任の話を受け、「行きます」と答えたのが2012年の8月上旬。お盆休みの前になる。

    ミャンマーと聞いて、皆さんはどう思うだろうか。当時の僕が“ミャンマー”と聞いて浮かべたイメージは以下の通りだ。

    ・軍事政権
    ・アウンサンスーチー氏
    ・とにかく情報が少ない国

    そもそも、ミャンマーという国の名前を知っていても、どこにあるのかさえわからなかった。
    アジアの地図を出され、「ミャンマーはどこだ?」と聞かれても、きっと直ぐには答えられない。それほどミャンマーという国に対するイメージは漠然としていた。

    ミャンマー赴任の辞令を受け、同年10月3日に日本を出発することに決まった。時期が決まれば早速ミャンマー事情を調べなくては・・・

    ミャンマーはおろか、東南アジアの知識は限りなくゼロだ。しかし少し調べたところで、ミャンマーという国は、現在日本が大変注目している国だと理解した。

    そして与えられた会社からの任務は「支店立ち上げ」という重要なミッション。かつての上司からは、「支店立ち上げとは貴重な経験だし、行った方がいい。上海やバンコクは支店として出来上がっている。だから国は変われど実際の業務は日本と同じだ」と助言を頂いた。

    ミャンマーはご存知、民主化の波が押し寄せており、今後様々な国のビジネスマンや旅行者がフロンティアとして目指す場所だ。そこに日本の旅行会社として真っ先に進出するという、何とも美味しい話を頂いたのだ。ミャンマー赴任の時期は刻一刻と迫っていった。

     

    日本を発つまでに残された時間で、多くの人に会いに行った。そして、大学柔道部の総監督にミャンマー赴任の件を報告するため日本武道館を訪れた。

    監督には大学の頃に大変お世話になっていた。僕は日体大へ進学し、柔道部に入部した。しかし、日体大柔道部は全国からレベルの高い選手が集まっている。部員は男子だけでも100人は在籍していた。4年間努力をしても試合に出場できずに、部を去る人がほとんどだ。

    僕は4年間続けても、選手として活躍することが出来ないと判断すると、すぐにマネージャーに就任した。皆、全国大会出場、上位入賞は当たり前。僕の関東大会出場というレベルは自慢にもならなかった。

    高校の監督の推薦で入った大学だったが、入部直後にマネージャーに転身するという「裏切り行為」に、周囲の反応は冷ややかだった。

    さらに、仕事はしない、やれと言われても出来ない、大学2年の夏は合宿に帯同もせず大学の語学研修プログラムに参加。1ヶ月間アメリカ・オハイオ州を訪れていた。当然、先輩たちからも冷たい対応をされる日々が続いた。振り返ると、「近年で最も駄目なマネージャー」だったのかもしれない。そのため、選手、コーチ含め、周りからいつも厳しい目で見られていた。

    但し、総監督は、僕がマネージャーになったこと、合宿を休んでアメリカに行った事、その他多くの勝手な行動を許してくださった。そし僕がパソコンでの事務作業、英語が得意と認めてくださり、事務作業と海外からの来客の役割を回してくれた。また就職活動でもご支援頂いたことに、感謝の念は尽きない。

    久しぶりの対面だったため、少し緊張はしていた。ただ、どうしてもミャンマー赴任前に報告をしたかった。

    赴任の報告をした後、監督からは、「戸田、ミャンマーでも柔道やるのか?」と尋ねられた。同国で柔道に関わることなど全く想像していなかった僕は、少々面食らってしまった。監督からは、「全柔連に戸田の先輩がいるだろ?彼を訪ねてみると良い」とご紹介頂いた。

    同じ会場に全柔連で働くその先輩がいた。僕が1年の頃に4年生だった先輩だ。先輩は、久しぶりに会ったが覚えていてくださった。

    先輩からは、「海外の柔道に関しては全柔連でなく、講道館の国際部だね。国際部にフジタさんとシモヤマさんという方がいるので、聞いてみるといいよ」と声をかけて頂いた。

    数日後、私は講道館国際部へメールを送った。フジタさんとシモヤマさんは90年代にミャンマーに指導者として赴き、実際に複数年の指導経験をもつ。

    僕は、仕事の合間を縫って、講道館の国際部を訪れた。

    講道館

    東京学生柔道選手権大会

    戸田祐樹

    戸田祐樹

    神奈川県横須賀市出身
    5歳から横須賀の町道場で柔道を始める。
    中学(横須賀市立坂本中学)まで「ポイントをとって終了まで逃げ切る」という守備的な柔道スタイルであったが、高校(日本大学藤沢)では監督が豊富なスタミナと手足の長さに着目し、変則的なプレースタイルかつ「試合開始から終了まで攻め続ける」“超”攻撃柔道を実践。
    大学(日本体育大学)では、マネージャーとして150人以上の部員と監督のサポート役(調整役)にまわった。2008年北京パラリンピックは、柔道チームスタッフとしてチームに帯同。
    現在旅行会社に勤務する傍ら、ヤンゴン管区軍と体育学校の学生に柔道を指導している。
    柔道キャリア23年(2014年現在) 柔道参段 左組

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