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  • 【ミャンマー連載コラム】蘭貢界隈膝栗毛 vol.3

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    第3回:インディアン=コネクション
    日本貿易振興機構アジア経済研究所 リサーチ・アソシエイト
    長田 紀之

    かつてヤンゴンはインド人の町だった。いまでも町の中心部には大きなモスクやヒンドゥー寺院が建ち、その面影を残している。建物だけではない。行き交う人々のなかにも、南アジア系の特徴を示した顔立ちをした人が少なくない。

     

    19世紀、ミャンマー最後の王朝コンバウン朝の王国は、3度にわたるイギリスとの戦争に敗れ、段階的に植民地化された。結果、コンバウン朝の支配圏は、すでに英領であったインドに組み込まれ、その1州であるビルマ州を形成した。

    ヤンゴンはこの新植民地の首都として19世紀半ばに再建された。ビルマ州植民地行政の中枢だ。また、イギリスは植民地化後、従来、人のあまり住んでいなかったエーヤーワディー・デルタを開拓し、世界有数の米の産地へと変貌させた。ヤンゴンはこの後背地デルタから集めた籾米を加工(精米)し、輸出する国際貿易港でもあった。

    この過程で発生した膨大な労働需要によって、ヤンゴンを含むデルタの人口真空地帯に大量の人間が流れ込んだ。デルタ農村部には、エーヤーワディー河中流域乾燥地帯の旧王国中心部からビルマ人の農民が流入した。

    他方で、ヤンゴンには、国際的な商業ネットワークに乗って、世界中から多彩な人々が集まった。最も数が多かったのはインド人で、特にインド亜大陸東海岸からベンガル湾をわたって大量の出稼ぎ労働者が流入した。ビルマ州はインドの一部だったから、こうした人の流れを規制する国境は存在しなかった。

    ヤンゴンの人口は、1872年には約10万人だったのが、日本軍侵入直前の1941年には約50万人と、およそ70年間で5倍増した。この人口増には、南アジア系移民による社会増の寄与した部分が大きい。

    無論、インドからの来航者のほとんどは出稼ぎやビジネスのために短期でビルマに滞在するだけだった。しかし、ベンガル湾をまたぐ人口還流の規模が大きくなるにつれて、ヤンゴンの人口も膨らみ、その中から土地に根を下ろす移民も徐々に現れた。

    20世紀の初頭までにヤンゴンの人口の半数強はインド亜大陸出身者に占められるようになっていた。ヤンゴンはインド人の町となった。

     

    ところが、20世紀には、ビルマ・ナショナリズムの機運が高まってくる。ビルマ州の枠組みをビルマ人が引き受け、植民地的な経済構造を脱却して、独立した民族=国民国家を打ち立てることを目標とする運動だ。

    このなかで、インド人が植民地主義の片棒を担ぐ存在とみなされるようになった。ヤンゴンにおいても、インド人住民とビルマ人住民が敵対する状況が生まれてきた。

    ビルマ・ナショナリズムの本願は、第二次世界大戦後の1948年、イギリスからの独立により達成される。戦争と民族国家の成立を経て、多くの南アジア系住民がヤンゴンを去り、故地へと帰っていった。

    また、独立まもなく、民族問題に由来する内戦が勃発し、後背地からの避難民がヤンゴンへと集中するようになった。ヤンゴンの人口構成におけるビルマ人の比率が急速に高まった。

    1960年代になると、ビルマ式社会主義を標榜する軍事政権が成立し、企業や土地の国有化政策を推進した。ビルマに根を下ろしていた南アジア系の人々も、財産や仕事に甚大な被害を受け、再び大きな流出が発生した。

    この後の四半世紀、政治的にも経済的にも、ビルマは国際社会からの孤立を強めてゆく。ヤンゴンは、かつてのイギリス帝国のグローバルなネットワークから切り離され、民族国家の閉鎖的な枠組みの中に閉じ込められていった。インド人が多数派をなした植民地都市は、独立国家ビルマの首都へと変貌した。

    ビルマに残った、あるいは残らざるをえなかった南アジア系住民も、亜大陸との関係を薄め、インドやバングラデシュといった南アジアの諸国家からは忘れられた存在となっていった。

     

    1990年代以降、ミャンマーは再び「開く」局面に入った。最近の改革は、この流れを一挙に推し進めている。

    1997年にASEANに加盟することで、ミャンマーは国際社会への復帰を果たした。そのため、東南アジア国家という顔が目立ちがちだ。しかし、ミャンマーはほぼ同時期にBIMSTECという環ベンガル湾地域の国際協力枠組みにも参加している。

    さらに近年では、東南アジアと南アジアとの連結性を高める鍵として、ミャンマーへの関心が高まっている。かつてのようなベンガル湾をまたにかけるインディアン=コネクションが再び立ち現れるかもしれない。そのとき、当地の南アジア系住民たちはどのような振る舞いをみせるのだろうか。去就が注目される。

    ただし、ロヒンギャ問題を発端として、多数派仏教徒による反イスラーム暴動が全国に波及していることには注意すべきだ。イスラーム教徒には南アジア系住民が多い。急激な変化のなかでうっ積する人々の不安が、文化的他者に向けて荒々しく吐き出されている。「開く」ことは、「閉じる」序曲ともなりかねない。

    4/07/2014

    ヤンゴン中心部のモスク(20世紀初頭、イギリス植民地期)

    同じモスクの現在の様子(筆写撮影)

    長田紀之

    長田紀之

    日本貿易振興機構アジア経済研究所
    リサーチ・アソシエイト

    研究者。専門はミャンマー近代史。1980年、東京都出生。2002年、東京大学文学部(東洋史学)卒業。同年、東京大学大学院人文社会系研究科に進学し、修士課程・博士課程を経て、2013年6月に博士号を取得した。この間、2007年から2009年にかけてミャンマーへ留学し、ヤンゴン市内を徘徊。現在は、都内の大学で非常勤講師として東南アジア史やビルマ語を教える一方、2013年4月より日本貿易振興機構アジア経済研究所にリサーチ・アソシエイトとして勤務し、現代ミャンマーの動向分析に当たっている。

    http://www.ide.go.jp/Japanese/Researchers/osada_noriyuki.html

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