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  • 【ミャンマー連載コラム】蘭貢界隈膝栗毛 vol.6

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    第6回:ザ・ストランド
    日本貿易振興機構アジア経済研究所 リサーチ・アソシエイト
    長田 紀之

    ダウンタウンの南、ヤンゴン河沿いに走る道路はその名も沿岸通り。ビルマ語ではカンナー・ラン、中国語では海濱街。実は海ではないのだけれど、外航船の発着する港町だったから華人たちはこう呼んだのだろう。河濱街の名はまた別の通りにつけられた。話を戻すと、沿岸通りは英語ではStrand Road。おそらく英語の名前が先で、ビルマ語や中国語の名前はその訳と思われる。イギリス人はこのネーミングが好きなようで、ロンドンをはじめ、かつてのイギリス帝国の多くの町に同じ名前の通りが見られる。

    世界中にあまたあるストランド通りのなかで、ヤンゴンのそれをただ一つのそれにしている象徴的な建築物がある。ストランド・ホテルだ。白亜の外観は重厚だが派手ではない。ヴィクトリア様式の気品をまとい、南側の河に向かって堂々と建っている。今でこそミャンマーへの来訪者はまず市の北側の空港に降り立つのが普通(最近陸路での入国が許可された)だが、100年前の玄関口は国際港のこの岸辺だった。

     

    19世紀の後半、スエズ運河の開通とインド洋航路への蒸気船就航によって、ヨーロッパとアジアの諸地域は格段にその距離を縮めた。地球上の人の移動がその規模を増すなかで、ヨーロッパ人の旅客がアジア各地を訪問するようになり、その受け皿として、それぞれの町に西欧風のサービスを提供するホテルが生まれた。現在に至るまで最高級の老舗ホテルとして続いているものも多い。日本では1890年、明治国家の威信をかけて東京に帝国ホテルが開業している。

    同じ頃、東南アジアでは国家を背負った帝国ホテルならぬ、民間実業家による「ホテルの帝国」が生まれていた。アルメニア人のサーキーズ兄弟が、この地域の国際交易港に相次いで高級ホテルを開業したのだ。1885年にペナンのイースタン・アンド・オリエンタル・ホテル、1887年にシンガポールのラッフルズ・ホテル、そして1901年にヤンゴンにストランド・ホテルができた。これらのホテルは、「スエズ以東最高のホテル」をうたい文句に、多くのヨーロッパ人旅客を楽しませた。

     

    ではなぜ、遠くコーカサスに由来するアルメニア人がベンガル湾を活躍の舞台としたのか。古来より、故地で迫害を受け離散するという経験を繰り返したアルメニアの正教徒たちは、インド洋の津々浦々の港町に移り住んでごく小さな集団をなし、港町と港町とを結ぶ広域のネットワークを形成していた。ホテル王のサーキーズ兄弟はこの文脈のうえに登場し、商才を発揮して成功を収めた。

    ヤンゴンにも極小のアルメニア人コミュニティが存在した。ダウンタウンの真ん中スーレー・パゴダから、東西の主軸マハーバンドゥーラ通りをしばらく東に進むとアルメニア教会にいきつく。ヤンゴンがイギリスに植民地化されて間もない1862年、今ある土地のうえに最初の教会が建てられたという。

    私が2009年に訪問した際には、トタンで葺かれたこぢんまりとした教会が、周囲の喧騒から取り残されるように佇んでいた。インド系の司祭やビルマ人の管理人の話では、隔週で行われるミサの出席者は10人足らずで、そのうちアルメニア系の人はほんの2・3人だけという。唯一出会うことができた老年のアルメニア系女性は、自らの過去について話したがらなかった。

    こうした寂しげな情景は、同じマハーバンドゥーラ通りのスーレー・パゴダを挟んで反対側、ダウンタウン西側に位置するユダヤ人シナゴーグとは大きく違っている。シナゴーグは、海外のユダヤ人からの援助を取り付け、きれいに改修されていて、ラビは我々のような外国人に対しその経緯を積極的に説明しようとした。

     

    ストランド・ホテルもまた、この国の動乱やアルメニア人コミュニティの盛衰とともに、転変の道をたどることになる。サーキーズ家は1925年に別のアルメニア人にホテルを売却した。第二次世界大戦期にはミャンマーを占領した日本がこれを接収し、東京から帝国ホテルの人員が送り込まれた。

    1963年には社会主義を標榜する軍事政権によって国有化された。しばらくはアルメニア人の雇われ経営者のもとでストランド・ホテルはその矜持を保っていたようだが、やがて彼が国外へ出ると、ホテルとアルメニア人とのつながりも切れてしまった。以後、施設もサービスも地に落ちる。

    再建の風が吹くのは1990年代に入ってから。外資が導入され、半官半民のジョイントベンチャーが設立された。改修のための3年間の休業期間の後、1993年に新装開店。現在では、香港を拠点とするGAW Capital Partnersグループ傘下のGCP Hospitalityに経営が移っている。

    いまや正面の港に海外からの客船の姿はない。対岸のダラー地区からこちら側への通勤者を運ぶ渡し舟やフェリーが、せわしない往復運動を繰り返すのみだ。沿岸通りも東京の湾岸道路さながら、大型トラックがうなりを上げて飛ばしている。ヤンゴンは忙しくなった。独り昔のまま悠然と流れるヤンゴン河を見据えながら、ストランド・ホテルは背後からやってくる訪問客に洗練されたサービスと植民地的郷愁を提供し続けている。

     

    ※この記事を書くのに以下を参照しました。

    ・重松伸司.2004-2007.「ベンガル湾のアルメニア商人たち(その1~5)」『世界史のしおり』(帝国書院)
    http://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_world/index.html
    ・Andreas Augustin. Strand Hotel: History of the Hotel (The Most Famous Hotels in the World)
    http://www.famoushotels.org/hotels/234
    ・Andrews, Jim. Tiffin Time Again. Irrawaddy 14 (1), January 2006.
    http://www2.irrawaddy.org/article.php?art_id=5371
    ・Association of Myanmar Architects. 2012. 30 Heritage Buildings of Yangon. Yangon: Association of Myanmar Architects.
    ・Foster, Alice. Tracing the Last of Burma’s Once Influential Armenian. Irrawaddy, November 23, 2013.
    http://www.irrawaddy.org/history/tracing-last-burmas-influential-armenians.html

    7/14/2014

    ストランド・ホテル(筆者撮影:2009年)

    アルメニア教会の外観(筆者撮影:2009年)

    アルメニア教会の内側(筆者撮影:2009年)

    シナゴーグの内側(筆者撮影:2009年)

    長田紀之

    長田紀之

    日本貿易振興機構アジア経済研究所
    リサーチ・アソシエイト

    研究者。専門はミャンマー近代史。1980年、東京都出生。2002年、東京大学文学部(東洋史学)卒業。同年、東京大学大学院人文社会系研究科に進学し、修士課程・博士課程を経て、2013年6月に博士号を取得した。この間、2007年から2009年にかけてミャンマーへ留学し、ヤンゴン市内を徘徊。現在は、都内の大学で非常勤講師として東南アジア史やビルマ語を教える一方、2013年4月より日本貿易振興機構アジア経済研究所にリサーチ・アソシエイトとして勤務し、現代ミャンマーの動向分析に当たっている。

    http://www.ide.go.jp/Japanese/Researchers/osada_noriyuki.html

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